~教えて!「植田蚊帳(うえだかちょう)の発展期話」~

工場を拡張し、織機・染色設備・縫製工場を整え、蚊帳製造を一貫体制を可能にした弊社は、当時隆盛を極めていた地方問屋さんへの直接販売を始めました。

それが功を奏し、生産量が一気に増加します。

この頃の奈良は蚊帳の一大生産地として全国に君臨しており、蚊帳製造業は市内に70軒を数えたという資料が残っています。

弊社の最寄駅である奈良市内の京終駅(平城京の端という事で「きょうばて」と読みます)には、蚊帳専用の引き込み線まで作られました。(現存します)

この後の蚊帳製造の変革は・・・

昭和12年150万張

昭和38年250万張(ピーク)

昭和47年75万張

となり、エアコンがまだ存在せずサッシや網戸さえも無かった時代に蚊帳の製造は終止符が打たれ、需要は一気に激減しました。

弊社の最盛期時の最大得意先は九州の炭鉱(筑豊炭田)で、炭鉱労働者の必需品として作れば売れる時代であり、母親達は家でも昼夜を問わず蚊帳を縫っていたのを思い出します。

筑豊炭田のお得意先には弊社の蚊帳を最後まで可愛がっていただき感謝しかありません。
(訪問するとタダでは帰してくれないキップの良い豪傑がたくさんいらっしゃいましたw)

一時代を築いた蚊帳製造業もその他多くの産業と共に時代の流れと共に衰退の道をたどる事になり、令和の今、日本に現存する蚊帳製造業者はわずかとなってしまいました。これからも時代の流れを見極めて順応しながらメーカーとしての存在価値を高めていきたいものです。

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